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コーヒーのはじまりだったかもしれない2年半のネパール駐在

2016年、28歳。僕はネパールにいました。首都カトマンズ。標高1,300m。下宿先から少しマウンテンバイクを漕いで繁華街タメルへ向かう。The観光地の一等地に鎮座するヒマラヤン・ジャバ・コーヒー。ネパールコーヒー業界の雄。ネパール語オンリーの職場で今日もありがたいことに言語と忙しさに揉まれるのだ。


お茶文化の色濃く残るネパール、そこら中で最高にうまいチャイが飲める。その一方で世界最高峰のエベレスト登山の入口で世界中の登山家を受け入れ、道具の調達や体を順応させて最高の登山に人々を押し出すという大きな街の役割がある。わんさか流入する欧米人とともに、新しい文化、コーヒーがここ十数年でめきめきと芽を出し育ってきた。


息を切らせた日本人にジャバのスタッフたちが微笑みかけて、あたたかく迎えてくれる。今日も前見て、今やれることやるしかない…


「今村くん、ネパールに行って欲しい」「ネパールでやって欲しいことは、特にありません」「語学学校に通ってネパール語をしっかり学んで現地の人と生活してください」「1日に1つ小さくても何かことが進めばこの国では大成功ですよ」...いろんな言葉がその時の情景と一緒に、今になってもまぶたの裏に浮かびます。


僕のNPO職員としての現地の仕事と言えるものは、ネパール語を習得することだけだったと言ってもいい。運がいいことにホームステイの家族が僕を赤ちゃんに話すようにネパール語のシャワーを起きている時間ずっと注いでくれた。3ヶ月くらいで日常会話は話せるようになって、毎日街に繰り出して興味の趣くままに街を徘徊してネパールを吸収していった。最低限の会社からの要求はすぐにクリアする形となった。


現地の人とのコミュニケーションが取れるようになってくると自然とコーヒー関連の話が飛び込んでくるようになって、国内のコーヒー農場に行ったり実際にコーヒーの苗を植えたりする経験をすることができた。コーヒー苗を植える投資の話やコーヒーを日本に輸出しようという話も入ってくるようになった。話がどんどん加速していくような中で僕も一緒にコーヒーを勉強させてもらった。もっと勉強したいという気持ちから、ジャバのバリスタスクールに通うことになってコースを卒業したのちもインターンとして店舗で働いたり、その後もバリスタたちとの交流は続いている。


自分もよくわからない大きな流れの中でコーヒーの基礎のキ(のキ)を学んだ。これからネパールに何年いるのかもわからない、インドに移住してくれという話も出てきている。なにがなんだかわからない、それでも現地の人と現地の生活を続けた。結局次の任務地はアメリカはロサンジェルスということになった。2年半。


コーヒーを提供する存在としてのスタートはネパール時代に始まった。今思えば当時はとにかく必死にサバイバルしていたけど、知らず知らずコーヒー屋としての人生が始まっていた。



(当時のメモリーカードを紛失して少しだけポートレートが残ってました。少しだけでも雰囲気が伝わればいいなと思います)





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